はじめに

今回、葉影立直氏が「歩き方V」所収の「失楽園の住人たち」で主張した刑法175条違憲論について、中立的でまっとうな法律論議とはどのようなものかを紹介させていただくつもりです。参考までに言えば筆者は某国立大学法学部で公法を専攻している学生であり、以下においても、現在スタンダードな法律的考え方を述べることはできているつもりです。
最初に注意しておきます。以下にさまざまな見解を説明していきますが、それらは「私が同意できる見解」という基準で紹介しているわけではありません。この問題に対して正確に認識するためには少なくともこの程度を知っている必要があるだろうと、一方的な記述を避けて書いたものです。実のところ私自身はやや違憲論寄りなのですが、だからといって違憲論のみを紹介していてはこの記事の意味がありませんので。
なお、参照条文は文末に一括して掲げましたので、必要があったらご覧ください。

上位法の優越

葉影氏は、上記の文章中で、以下のように述べています。

「ふたつの法律が矛盾する場合、法律の世界では上位の法律(この場合は憲法)を優先します。したがって刑法175条は憲法違反(違憲)なのです。」

この部分については、問題はさほどありません。条約の位置については論議もありますが、通説に従えば

憲法 → 条約 → 法律 → 条例 → 政令 → 省令・規則など 

の順に強い効力を持ち、上位の法に矛盾する下位の法は無効になります。ただし、同一順位の法同士が矛盾する場合、どちらを優先すべきかは一概に言えません。「特別法は一般法を破る」(特に場合を定めて適用する法律の方が、一般規定より強い)という原則もありますが、原則となる条文が、いわば「最強」だったりもするからです(例として、民法の「信義則」「公序良俗」)。このことはあとで出てきますので、覚えておいてください。

法律用語・法規の解釈

そこで葉影氏は、「刑法175条は、ワイセツな図書や図画、映像などの、頒布・販売を取り締まる法律です。ところがこのような法律があるにもかかわらず、憲法では『表現の自由&出版の自由』を認めています。」という認識に立って刑法175条を違憲であると述べたわけですが、実のところ、この主張はきわめて不十分なものです。
例えば、法律に書かれている言葉は一般生活で使われている言葉と常に必ずしもイコールではないことに注意する必要があります。理工学の専門書などに比べれば普通の人にもわかりやすい用語を使っているために誤解されがちですが、法律はれっきとした専門用語で書かれており、日常使う意味とは異なって解釈されることも多いものです。従って、憲法21条を読んで「表現は自由なんだ!」と思っても、その「表現」に(例えば)ワイセツは含まれていないかもしれないわけです。実際に、「憲法が保障する『表現』には、猥褻物や名誉毀損表現を含まない」という解釈も一部で唱えられました。この解釈をとれば、憲法と刑法の矛盾問題は起きないわけですから、刑法175条は合憲となります。
このような解釈に対抗するためには、それぞれにおける「表現」の意味や範囲を詳しく検討する必要があります。あるいは、「表現の自由」として保障されているものの内容や限界について考察する必要もあるでしょう。
ここで葉影氏が見落としている(あるいは故意に言及していない)憲法の条文があります。第12条、権利濫用の禁止です。この濫用禁止規定は同じ憲法の規定ですし、いわば権利行使の原則ですから、21条の保障より強く、概括的に適用されます。ではそれは、どのような規定なのでしょうか。
ある人の権利行使が別の人の権利を侵害することがあり得ることは、常識的に考えればわかることでしょう。それはどちらの権利も正当なものであってすら、そうなのです。よくこの例に挙げられるのは報道の表現と名誉侵害の衝突です。
憲法ではそのような場合があり得ることを想定し、憲法で保障されている権利であっても制約なしに、絶対のものとして使うことはできない、必ず他者の権利とのバランスを保って行使しなければならないという規定を設けているわけです。無論、憲法自体には非常に抽象的な規定しかされていませんから、具体的にどのあたりを権利衝突の妥協点として定めるのかは下位の法律に任されることになります。
そのような例として、先程の名誉侵害と報道のケースを考えましょう。刑法230条は、ある事実を掲げて人の名誉を公然と傷つけることを罰する「名誉毀損罪」の規定です。ここで、掲げた事実が真実かどうかがこの罪の成立にまったく関係ないことに注意してください。いかに本当のことだろうが、他者の名誉を傷つけるのは犯罪なのです。
無論、これでは例えばマスコミが政府高官の不正を暴くことが不可能になってしまいます。そこで、日本国憲法の精神に基づき、戦後加えられたのが第 230条の2で、「公共の利害」にかかわり、「公益を図る」目的で行なう場合には名誉を侵害しても罰されないことになりました。これが、名誉を傷つけられない権利と報道の自由の妥協点です。
ちなみに、この刑法改正は昭和22年のことで、同時に皇室に対する罪(不敬罪など)も廃止されています。刑法175条が廃止されなかったのは、決して葉影氏が言うように「当時の社会情勢によって」でも「見落とされていた」わけでもなく、表現の自由といえども絶対のものではないという思想に立脚したものなのです。「はっきり言って、規制は《あって当然》ではありません!」と葉影氏は言います。「規制」という言葉の捉え方にもよるのでしょうが、私には、何らかの他の権利による制約が存在するのは当然のことのように思えます。
念のために言えば、このように権利による権利の制約を考えるのは日本国憲法に特殊なことではありません。国際人権規約の該当条文を後に掲げましたが、ほとんど同様の規定の仕方を見ていただけると思います。葉影氏の権利観は非常に単純なものに過ぎると言えるでしょう。
話をわいせつ表現に戻します。では、わいせつな表現をする権利は、どのような権利と衝突すると考えられているのでしょうか。最高裁の判例は、それが「性的秩序を守り、最小限度の性道徳を維持すること」だと述べ、表現の自由を制約し得る公共の福祉の一部であると判示しています。ここでそのような「性的道徳の維持」が「公共の福祉」に含まれることを認めれば、やはり刑法175条は合憲となります。従って、違憲論を展開するためには「性的道徳の維持は公共の福祉ではない」という主張を行なう必要があります。
実際に見込みのありそうな違憲論はこの方向性です。「公共の福祉」の理解についてはさまざまな学説がありますが、有力なのはやはり、個人の自由が対立したときの調整原理である、というものです。そう解釈すれば、ある人のわいせつ観を別の人が強要されないようにする規制(入手手段や頒布場所の規制)は正当化できても、ある特定のわいせつ観を全国民に強要するような規制(刑法175条)は違憲であると言えるからです。これは葉影氏自身の持論や、多くの人々の感覚ともそうずれたものではないのではないでしょうか。

明確性の理論

葉影氏はさらに、「※作者注・違憲の理由は、まだ他にもありますが、今回は一つだけ記しました。」と述べています。おそらく、これは明確性の理論に立脚した議論を指していると思われますので、以下、その点について説明します。
精神的自由を規制する立法については、その要件効果が明確でないものは違憲となる、というのがここでいう「明確性の理論」です。法律の文言が漠然としたものであれば、なにが違反になる行為かを事前に予測することができないわけですから、表現行為は非常に萎縮したものにならざるを得ないでしょう。それが表現の自由の保障に非常に大きな影響を与えることを考慮して、このような原則が唱えられています。それは漠然としているだけでなく、明確だが対象が広すぎる規定についても同じです。
刑法175条は対象を「わいせつな文書、図画その他のもの」と規定するだけです。これが漠然、あるいは過度に広汎であると主張する余地はあるでしょう。おそらくこれが葉影氏の主張だと思われるのですが、どうでしょうか。
そうであるとして、話を続けます。たしかに「わいせつ文書」という文言から人が想像するレベルはさまざまであり、そのままでは「漠然としている」という批判を逃れられないかもしれません。しかし、先程も説明しましたが、法律用語と普通の人が使う言葉が同じである保証はありません。そして、法律用語としての解釈を設定するのは最高裁です。最高裁は、度重なる判例で「わいせつ」を

  • 1. 普通人の羞恥心を害すること。
  •  2. 性欲の興奮、刺激を来すこと。
  •  3. 善良な性的道義観念に反すること。 

と定義し、さらに

  • 1. 性に関する露骨で詳細な描写叙述の程度とその手法。
  •  2. その文書に占める比重。
  •  3. 文書に表現された思想と描写との関係。
  •  4. 構成や展開。
  •  5. 芸術性・思想性による性的刺激の緩和の程度。
  •  6. 読者の好色的興味を目的としたものかどうか。 

という基準によってその文書が取り締まり対象にして問題のないものかどうかを客観的に判断できる、という立場に立っています。その一方、さすがに最高裁も「通常の判断能力を有する一般人」が「具体的な場合に」処罰の対象になるかどうかを判断できないような条文は違憲である、という見解を示していますが、同時に刑法175条の文言は不明確ではないという判断も、明確に下しました。従って、現段階で明確性の理論による違憲を主張するためには、一旦下された判断を覆すほどの材料が必要になることを認識しておく必要があるでしょう。
ところが実際のところ、この程度に抽象的な表現は普通の法律なら至るところにあるものですし、「なにがわいせつか?」の判断もほとんどの人が一致できるところがあるという判断も可能でしょう。特に、明確にわいせつな表現をやりたいんだという人間がこの論理を正面から使うことには、なにか自己矛盾的なものが感じられます(なにがわいせつかは明確にはわからない、と主張するわけですからね)。

おわりに

先程から「判例」を中心に説明してきました。それは、法律の条文を盾になにごとかを主張することはいくらでも、あるいはなんとでもできますが、それが社会的に受け入れられ、認められるためには、既存の「お約束」を理解した上で主張するのでなくてはならないと思うからです。ただ勝手に自分の主張を述べるのでは、既存のシステムの上で、少なくとも「安定」と「予見可能性」という利益を得ている普通の人たちの耳には決して入らないでしょう。そんな主張には意味も実効性もありません。
この原稿に書かれているようなことを踏まえることで、さまざまな人のさまざまな主張が活発なものになることを願っています。

 

日本国憲法 第12条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う。
同 第21条1項
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
同条2項
検閲は、これをしてはならない。
刑法 第175条
わいせつな文書、図画その他のものを頒布し、販売し、又は公然と陳列した者は、二年以下の懲役又は250万円以下の罰金若しくは科料に処する。販売の目的でこれらの物を所持した者も、同様とする。
同 第230条1項
公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、三年以下の懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金に処する。
第230条の2 1項
前条第一項の行為が公共の利害に関する事実に係り、かつその目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。
世界人権宣言 第12条
何人(なんぴと)も、自己の私事、家族、家庭若しくは通信に対して、ほしいままに干渉され、又は名誉及び信用に対して攻撃を受けることはない。人はすべて、このような干渉又は攻撃に対して法の保護を受ける権利を有する。
同 第19条
すべて人は、意見及び表現の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の違憲を持つ自由並びにあらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む。
同 第29条2項
すべて人は、自己の権利及び自由を行使するにあたっては、他人の権利及び自由の正当な承認及び尊重を保障すること並びに民主的社会における道徳、公の秩序及び一般の福祉の正当な要求を満たすことをもっぱら目的として法律によって定められた秩序にのみ服する。

文書発表の経緯

以下の文章は、同人誌「コミケットの歩き方VIII」(OB会, 1996)に投稿として掲載されたもので、同「V」に(やはり投稿として掲載された)葉影立直「失楽園の住人たち」に対する反論を意図していた。葉影氏はポルノ小説家で、同記事において非常に極端な憲法解釈を基礎にした刑法175条違憲論を述べ、一切の表現規制は誤りであると主張していたのである。
同「VI」においてこれに対する法律的反論が掲載されなかったことから、これを放置しておいた場合非常に独善的な憲法理論が一人歩きすることを恐れた筆者が、非常にお節介ながらしゃしゃりでたのが本文章である。基本的には「法学的思考」の一サンプルとしての意味しか持たないと思うのだが、あるいはどなたかの参考になることもあるかもしれないと思って掲示しておく。
ちなみに私も猥褻表現規制には基本的に反対だが、反対することと誤りであると決めつけることは異なる。また、規制なき表現を要求する一方で、だが子供などの目からは隠せという葉影氏のような方向性が果たして妥当かどうかには大きな疑問を持っている。アメリカの猥褻表現規制などが同様の方向性を持っているという事実がそういった主張の裏付けとして挙げられることが多いようだが、そのアメリカでロマンポルノのようなものが生まれたかどうか。闇の美しさを知るためには光が併存した「あわい」が存在する必要があるのだし、人生が二分法でできてはいないことを知るのが人間的成長ではないか。人間の性の問題をすべて闇の領域へと押し込めてしまうことが表現の自由だという葉影氏にとって性とは何であるのか。気になるところではある。

余談:

葉影氏が「SFマガジン」投稿欄で何やら論争めいたものをまたもや繰り広げているらしいのをたまたま目撃した。どうやら『ソリトンの悪魔』の梅原克文氏に対し、「おんどりゃぁ、作家やろ、うだうだ言うとらんと、売れるモン、書かんかいっ!」と啖呵を切ったらしいのだが、「私は葉影氏よりも売れている」と一刀両断されていた(1998年2月号)。勢いだけはいいのだが行動が伴っていないし、発言する前にあと3秒考えた方が良いのも変わっていないようだ。経験が人を変えるものとは限らないということは知っていたつもりなのだが。